死から

「キャーーー!!!」

「大丈夫!?」

「いたい、いたいいたいいたい!!!」

「お姉ちゃん、大丈夫?」

どれが誰の声なのかもわからない、自分が喋ってる感覚もわからない。ただ遠くから痛い痛い痛いと聞こえてくる。真っ暗で何も見えない。

 

スマホ持ってきたけど、お母さんに電話かけれる?」

「……」

私はゆっくりと目を開けて、"右手で"それを手に取った。発信を押して、その女性に手渡す。

 

その後意識はなかったのかあったのかわからない。気付けば救急車の音が聞こえて、私は担架で運ばれて、母親と妹が来ていた。(家の近所だったため)

「なんでこんなことするの……」

母親が救急車の中でそう言ってたような気がする。上手く覚えていないけれど。

以後、私の意識は明確でポケットからスマホを取りだし、なんと担架の上でのんきにTwitterをしていた。

「死ねなかった」「左腕が痛い」「自殺ってこんなもんなんだ」

そんなことをツイートしていると、さすがに「やめなさい!!」と母親にスマホを取り上げられた。(虐待親だけどさすがにこれは正しいと思う)

 

気づいたら私は大きな病院に運ばれていた。

「どうしてこういうことをしたのかわかりますか?」

「はい、死にたかったからです。」

その他いくつかの質問をされたが、びっくりするほど私の受け答えは冷静だった。

死ねないなら死ねないなりにそれ相応に今後について向き合わなきゃいけないと覚悟していたのだろうか。それとも自殺に失敗して変にハイになっていたのか。

すぐに大きな病院に運ばれ、大きな手術が行われ、私はしばらくICUで過ごした。

病院で出るご飯はいつも美味しそうだったけれど、果物の汁を吸うくらいしかできなかった。

その後、1年ほどにわたって手術は行われていったのだが、左腕の粉砕骨折だった。今でこそリハビリの成果あってほとんど正常に動くが。

 

病院の看護師さんは優しかった。「髪長いね、今日はお団子にしよっか。明日は三つ編みがいい?」「若い患者さん多いから嬉しい〜」

 

こんな巨デブにも優しくしてくれるんだと思った。優しい世界が家の外にはあることを知った。その後しばらくは将来看護師さんになりたいなあ、なんて考えていた。

 

しばらくすると地獄の時間がやってきた。

 

「お母さん面会に来てますよ」

 

つづく

死まで

ある日、妹の保育園の入園が決まった。

 

私は妹が大好きだった、家族の中で唯一愛していると言えた。

0歳の産まれたての頃からお世話し、3歳の今までずっと一緒にいた。

 

妹の行く末を見送ってからでないと、

死ねないと思った。

 

役所に行く用事もあった。保育園の入園日もあった。じゃあ、実行するならそれらが全部終わった次の日だ。

 

死にたくはなかったのかもしれない。けどそれ以外方法が見当たらなかった。児童相談所はもううちにはこない。きていても大丈夫です元気ですを連呼するべきだけの相手。だから児童相談所なんて頭はなかった。

妹も可哀想だった。ジュースを零せば怒鳴られ発狂、八つ当たりでベッドの上にだけど思い切りぶん投げられてる時もあった。まだ3歳なのに。

閉鎖的な環境で生きてきたから、頼れる大人もいない。逃げる方法が死しかなかった。

 

頼れる人。頼っていた人はいた。

当時いずみちゃんと並ぶくらいの親友だったきいちゃんは、死ぬ前に教えてもらった電話番号にかけた瞬間、「こんなことで電話してきてほしくて電話番号教えたんじゃない」と怒られた。

当時境界性パーソナリティ障害を患っていたであろう私は、他の友達にもたくさん迷惑をかけ、たくさんの人に見放された。死ねば?というような態度だった。

だが、今までそんなに深い関わりもなかったが友達である歴だけは長かったむげちゃんがいた。最近になって特段親しくなったのだ。死ぬと決めたあたりから。

心配もあったのだろう、同情もあったのだろう、それとも友達として本気で想ってくれてか、私にはわからないけど、むげちゃんは最後の最後の時までずっと寄り添ってくれた。

私は死に場所の写真をTwitter(現X)にあげていた。その場所を特定して出待ちしようかと、そうまでしてくれていた人だった。今でも感謝している。

 

その日は晴天の日だった。嫌に明るく眩しい。

外の日差しが怖くていつも布団にくるまっていた鬱の私には眩しすぎるほどの晴天。二徹して缶チューハイをかっくらっていた不眠症の私には眩しすぎるほどに。

私が親に束縛されながらも唯一許可されていた一人での外出、それは「ヒトカラ」だった。

ヒトカラに行くという名目で出たので、お金も手渡された。こんなのいらないのになと思いつつ。

歩く。ただ目的の地まで歩く。

その日、むげちゃんは仕事で連絡がつかなかった。

だれもいない、ひとりぼっち。

親に嘘をついたなと怒られるのが怖くて、カラオケにまず一度入った。

非嘔吐の過食症だった100kgデブの私は伝票に「男性」とチェックを入れられた。些細なことかもしれないが、それがまた絶望を産んだ。

梨本ういの曲を数曲歌って、すぐに出た。

 

目的の歩道橋と、別の歩道橋と、近くのイオンと…ぐるぐるずっと回っていた。ベストな場所やタイミングを狙っていたのか、自分の死を遅らせたかったのか、もはや何かわからないが、数時間ずっと回っていた。

同じところを何度も通るので、通り道にいた駐車場の警備員の人に怪訝な目で見られていたように思う。

 

夕方18時頃だっただろうか。辺りは暗くなり始めた頃。人の入りが少なくなってきた。今ならいけると思った。

歩道橋を何往復もする。人が居なくなるまで、だれも通らない瞬間を狙うため。

いなくなった。心の中で10数える。

10、9、8、7、6、5、4、3、2、

1。

その瞬間、ゲームで決定ボタンを押され行動コマンドを実行するように命令をくだされたように、まるで自然に、体が動いた。カバンを置き、手すりに掴まり足をかける。

 

落ちるためにそこに腰掛けた瞬間、私の意識は飛んだ。

 

つづく

高校

いずみちゃんに彼氏が出来た。

 

私にとって人生を大きく変える出来事だった。どうして、なんで私じゃないの。どんな男だよ。だれだよ。

私はいずみちゃんの本名を知っていたので、SNSや学校のページ等徹底して調べあげた。リア垢。母親や父親のFacebook。事業所。すべて。

住所もわかった、学校もわかった、出会ったらどうしてやろう。なんで私じゃないんだと刺殺してしまおうか。そんなことも考えつつ、親の束縛があるから私は友達に会いに行くことなど許されなかった。

 

ふと気付く。私の人生っておかしいんじゃないか……?

いずみちゃんとはいつの間にか疎遠になって喧嘩別れしていた。

今までの私の人生なんだったんだろう。

 

ここで現実に戻ってみよう。

住みは関東。その頃に妹が生まれていたので、家族4人になっていた。文字通りFXの有り金を溶かした父親のせいで、生活保護を受けることになる。

父親が暴れる。母親は窓から奇声を発して助けてと泣き叫ぶ。よくわからないが私も真似をしてみる。もうめちゃくちゃだった。

私は親に命令されたこと以外をすると怒鳴りつけられるため指示待ち人間として生きていたのだが、ある日はじめて自分で行動を起こした。

家に警察を呼んだのだ。

母親にそれを言うと怒り、警察に電話をかけ直して「なんでもないんで大丈夫です」と言ったが、警察はそれでも来てくれた。

不登校だったりそんなこともあったので児童相談所も頻繁に家に来るのだが、母親に「元気です大丈夫ですと言いなさい」と言われていたので、その通り振る舞い続けた。

 

だれもこのおかしさに気付かない。自分すらも。

母親の口癖は「愛してる」。当時は言葉の意味もよくわからないままに受け止めていた。母の言動のどこが、何が、私を愛してるのかわからなかったから。

 

次第に一家離散し、離婚した。

私、母、妹の3人で生活保護を受けていたが、父親がいなくなった分しわ寄せが全て私に来た。

毎日怒鳴り叫ばれる日々。「知的障害者」「なんで生きてるの」「お前が生きてる意味教えて」「死ねよ早くなんで死なないの?」叫びながら言われた。

私が何かすると怒られるので、言われたこと以外はほんとに何もしないようにした。

買ってきたお弁当の蓋を開けていいのかもわからない。「開けなさいよ」開けようとする。失敗したらどうしよう、こぼしたら怒られる。恐怖で手がガクガク震える。こぼした。

叩かれた。

そういう、日常。

 

私は、完全な、鬱病になっていた。

 

 

つづく

中学

私はせなちゃんに勧められてとあるMMORPGに手を出した。

アメーバピグなんてものしか知らない私はその手のゲームの勝手がわからず、全体チャットやパーティルームで個人情報を喋りまくったり荒らしたりしてしまっていた。(当時9歳の上に社会経験がなく頭脳年齢が幼稚園児程度だったので、悪気はなかった)

せなちゃんがギルドを作って招待してくれた。

いつからだろう。せなちゃんはゲームにログインしなくなった。

双子キャラを作って遊んだり、馬鹿みたいなことして笑ったり、私の私だけの青春があのゲームにあった。

 

経緯はもう覚えていないが、他にも複数の友達ができた。せなちゃんの友達だったさくちゃんや、元々親友だったみらちゃん、むげちゃん……などを集めて、新しくギルドを作ることにした。

せなちゃんが作ったギルドの名前をもじって、名前は「天界のプリン」になった。今思えば不思議な名前だ。

そのギルドは大変賑わった。次第に女性10数名ほど、男性2名ほどのギルドになった。

 

リアルの実生活はというと、何も変わってはいなかった。

ただ引越しを転々としては、引きこもる毎日。

借金取りから逃げた先で、母親の店の元客のところに逃げたときがあった。

その時のことを私は鮮明に覚えている。

「さやか、あの人あんたの乳ずっと見てたよ」

私は初めて性的な目を向けられることに恐怖を覚えた。一刻も早くこの人の家を出たいと思った。そもそもパパがいるのになんで違う男の人の家にいるのだろうと。

そんな時でも、ずっとゲームに没頭していた。

 

女子小中学生が集まったギルドだったので、その年代特有のネチネチした陰湿な雰囲気もありつつも、みな仲良くやっていた。私は「特に仲いい存在」いわゆる依存のような関係にあった子が多かったので、よく嫉妬の対象にあっていた。(一時期3人くらいから同時に嫉妬の対象にされていた)

 

そのギルドの中で私は、いずみちゃんという子に恋していた。

共依存だった。いずみちゃんが学校から帰ってきても学校に行っている間も互いのことを考えていた。だけど、一度はOKされた告白も数日後には振られていた。

恋愛対象が女性ではなかったのだろうし、ネット恋愛もするような人ではなかったのだろう。

それでも私は考えた。

 

いずみちゃんと恋人になりたい。恋人になったらどうしよう?女の子同士だから養わないと。養うってどうしたらいいんだろう?中学生卒業すれば働けるのかな?いっぱい調べなきゃ。

え?中卒じゃ稼げないの?

じゃあ

 

じゃあ今から学校に行くにはどうすればいいの?

 

今更親に学校に行きたいとも言い出せない状況。借金取りから逃げたり、生活は不安定だったからだ。

一時期は勉強に取り組んだが、親の監視の目と回答を間違えた時の怒声がトラウマで手がつかず、なんと文字を書いた経験が少なすぎてひらがなすら書くのが難しかった私はスマホのデジタルペイントアプリで少しずつ字を練習した。とはいえ漢字は書き方が全く分からないので、手付かずだった。

 

そこから私の脳内は支配された。学校に行きたい。いずみちゃんを養いたい。養うためには…でもできない……どうしたら……

 

当時子供だった私は親元を離れる選択肢なんてなかった。親に愛されていると信じて疑わなかったし、社会を知らないからうちの家庭が普通だと思っていた。それに施設は怖いところだと親から聞かされていて、昔から何かあると「施設に入れるぞ」と脅されていた。

 

そこからだっただろうか、私の鬱が始まっていったのは。

 

 

つづく

幼少

さやかのじんせい

 

 

「ぱぱきらいだもんね」

 

うん

 

「さやはぱぱ嫌いだよね」

 

うん

 

「さやはままのこと大好きだもんね」

 

うん

 

「さやは、ママとパパ離婚した方がいいと思うよね」

 

それは…やだ

 

 

ぱぱとままが離れ離れになるのはなんかやだった。

全てに肯定してきたけど、それだけはなんだか嫌だった。

こんな家族でも家族と思っていたのだろう。

ぱぱとままになかよしでいてほしかった。3人でなかよくいたかった。

ぱぱとままにもっと見てほしかった。

 

愛されたいとは思わなかった。「愛している」という洗脳の言葉をかけられて生き続けたから。

 

これは、身バレを覚悟してまで書いた私の生涯。

 

 

 

始まりは22年前のこと。東北の寒い地で、寒い季節に私は生まれた。

記憶が無いからどんな生活を送っていたかは詳細はわからない。

 

最初は円満な家庭だったそう。

 

ただ、私が3歳頃になると父親は酒を飲んでは暴れるようになったとかなんとか。元々酒飲みだったらしいが、直にアルコール依存症となる。

父親は会社の社長をやっていたが、自分で物事を決めて動くのが苦手で電話も何もかも社長夫人である母に頼り切りにしていたのをよく見ていた。

 

私がある程度大きくなってから聞かされたことだが、母親はその街ではナンバーワンのスナックのママをやっていたらしく、お店のお客さんとして父と出会ったらしい。

「笑顔が優しくて素敵で、この人なら子供も大事にしてくれそう……」そう感じたらしい。

上っ面だけを見てんじゃねえアホがよ、と22歳の私からは言いたい。

 

私の幼少はパソコンとゲームが全てだった。

父の酒飲みの接待に付き合わされる母と私。

私は嫌だからパソコンやDSのゲームに逃避した。

 

家ではお皿の破片が飛び交う。壁に穴が空く。耳をつんざく怒声と泣き声。床は食べ物とガラスでいっぱい。

 

パソコンのサンリオのゲームが大好きだったのを覚えてる。ゲームの中ではキラキラしたクレープ屋さんになれた。現実では不登園児だったが。

接待に付き合わされ、昼夜は逆転した。当然幼稚園に通うことは困難。登園日数はトータルで1ヶ月にも満たなかったらしい。

 

6歳になった。

洋服のボタンが上手く開け閉めできない子だった。

いつも母が付きっきりだったから、学校の制服ではじめて1人でトイレに行く時、スカートはどうやっておろしてするのか?全部脱ぐのか?わからず混乱した。

ブランコの手すりから手を離して地面に頭を打つような子だった。

学校の手洗いの順番を無視されて落ち込んで帰ってくるような子だった。

そういう、子供だった。

 

小学校2年生まではちょくちょく通えていた学校も、ある時からピタリと行かなくなった。

「学校で順番無視されたの…あっちいってって、ひどいこといわれたの」

「なにそれ?いじめじゃん!!!もう学校行かなくていいからね、大丈夫だよ…」

その一言から私は学校に行かされなくなった。

自分の意思ももちろん多少はあった。元々あまり学校が好きではなかったから。

その状態で行かなくてもいいと親に言われたら、頷くしかない。

そこから私の引きこもり生活は始まる。会社が倒産し、借金取りから逃げるため転々と引越しもした。

 

9歳の時、インターネットで革命的な出会いを果たす。

アメーバピグだ。

その歳になるまで私は、同年代の子供と触れて接したことが人よりかなり少なかった。そういった経験は学校や幼稚園に通っている間だけだったからだ。

 

私はアメーバピグのせかいで、

せなちゃんとみらちゃんという子と親友になった。

 

 

つづく