死まで

ある日、妹の保育園の入園が決まった。

 

私は妹が大好きだった、家族の中で唯一愛していると言えた。

0歳の産まれたての頃からお世話し、3歳の今までずっと一緒にいた。

 

妹の行く末を見送ってからでないと、

死ねないと思った。

 

役所に行く用事もあった。保育園の入園日もあった。じゃあ、実行するならそれらが全部終わった次の日だ。

 

死にたくはなかったのかもしれない。けどそれ以外方法が見当たらなかった。児童相談所はもううちにはこない。きていても大丈夫です元気ですを連呼するべきだけの相手。だから児童相談所なんて頭はなかった。

妹も可哀想だった。ジュースを零せば怒鳴られ発狂、八つ当たりでベッドの上にだけど思い切りぶん投げられてる時もあった。まだ3歳なのに。

閉鎖的な環境で生きてきたから、頼れる大人もいない。逃げる方法が死しかなかった。

 

頼れる人。頼っていた人はいた。

当時いずみちゃんと並ぶくらいの親友だったきいちゃんは、死ぬ前に教えてもらった電話番号にかけた瞬間、「こんなことで電話してきてほしくて電話番号教えたんじゃない」と怒られた。

当時境界性パーソナリティ障害を患っていたであろう私は、他の友達にもたくさん迷惑をかけ、たくさんの人に見放された。死ねば?というような態度だった。

だが、今までそんなに深い関わりもなかったが友達である歴だけは長かったむげちゃんがいた。最近になって特段親しくなったのだ。死ぬと決めたあたりから。

心配もあったのだろう、同情もあったのだろう、それとも友達として本気で想ってくれてか、私にはわからないけど、むげちゃんは最後の最後の時までずっと寄り添ってくれた。

私は死に場所の写真をTwitter(現X)にあげていた。その場所を特定して出待ちしようかと、そうまでしてくれていた人だった。今でも感謝している。

 

その日は晴天の日だった。嫌に明るく眩しい。

外の日差しが怖くていつも布団にくるまっていた鬱の私には眩しすぎるほどの晴天。二徹して缶チューハイをかっくらっていた不眠症の私には眩しすぎるほどに。

私が親に束縛されながらも唯一許可されていた一人での外出、それは「ヒトカラ」だった。

ヒトカラに行くという名目で出たので、お金も手渡された。こんなのいらないのになと思いつつ。

歩く。ただ目的の地まで歩く。

その日、むげちゃんは仕事で連絡がつかなかった。

だれもいない、ひとりぼっち。

親に嘘をついたなと怒られるのが怖くて、カラオケにまず一度入った。

非嘔吐の過食症だった100kgデブの私は伝票に「男性」とチェックを入れられた。些細なことかもしれないが、それがまた絶望を産んだ。

梨本ういの曲を数曲歌って、すぐに出た。

 

目的の歩道橋と、別の歩道橋と、近くのイオンと…ぐるぐるずっと回っていた。ベストな場所やタイミングを狙っていたのか、自分の死を遅らせたかったのか、もはや何かわからないが、数時間ずっと回っていた。

同じところを何度も通るので、通り道にいた駐車場の警備員の人に怪訝な目で見られていたように思う。

 

夕方18時頃だっただろうか。辺りは暗くなり始めた頃。人の入りが少なくなってきた。今ならいけると思った。

歩道橋を何往復もする。人が居なくなるまで、だれも通らない瞬間を狙うため。

いなくなった。心の中で10数える。

10、9、8、7、6、5、4、3、2、

1。

その瞬間、ゲームで決定ボタンを押され行動コマンドを実行するように命令をくだされたように、まるで自然に、体が動いた。カバンを置き、手すりに掴まり足をかける。

 

落ちるためにそこに腰掛けた瞬間、私の意識は飛んだ。

 

つづく